そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。
そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。
私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。
村上春樹作品といえば「あきらめようよ。現実を受け入れよう」と主張する作品がほとんどだった。
君たちは理想郷を思い描くけれど、僕らは現実の世界で生きていくしかないんだ。
ここで現実を受け入れるしかないんだ、と。
この作品では駄目だと思ったら場所を移せと言っている。
30年前「風の歌を聴け」で同じ作者が主人公に言わせたのは、「どこも同じさ」というセリフだった。
でも同じじゃない。
月が二つある世界に留まっちゃいけない。猫の街に留まっていたんじゃ、どうにもならないこともある。
そこでは一歩を踏み出す勇気が、親しい人に別れを告げる勇気が、そしてうまく行かない理由が自分にあるのではない、環境が変われば自分はうまくやれるんだ、と自分やまだ見ぬ別世界の可能性を信じることも、必要になるのだろう。
興味深い登場人物がたくさん現れるけれど、彼らの一人一人について、猫の街に留まってしまった人なのかどうか、留まってしまったのだとしたらなぜなのか。
いろいろ考えてみると話が長くなりすぎるほどテーマが詰め込んである。
天吾の父親はまるで古い村上春樹作品の主人公が年老いた姿のようにも見える。
完全に自立し、誰にも何も期待せず、諦めてしまった人の姿。神や救世主に依存するカルト信者たちと、完全に絶望し生きる力を失った老人。
逃げた先で悲劇に見舞われた不倫女。
暴力夫から逃げ出せない妻。
愛されることを諦めた野獣。
救世主の正体を確かめる勇気が湧かない人々。
猫の街に迷い込むことも、そこに住んでいる誰かに会いに行かねばならないこともあるだろう。
でもそこで死後の救済を待ち続けるような人にだけはなっちゃいけない。
汽車が迎えに来なくても、線路を歩いてゆく行動力が必要だ。
村上さんの作品に出口はないと思っていました。
でも、book1と2を読み終えた時点で、ノルウェーの森では助けることの出来なかったものを、ここでは助けられるのではないかと強く感じました。
そして、このbook3を読んで"ある種の問題は、それが起きたときと同じ次元では解決できない"と言う言葉を思い出しました。
リサランドールという科学者が探している異次元と、この作品の中に出てくる月が二つ見える世界は同じなのではないかと思います。
現実と村上春樹の世界は実は同じだったと言うことになってほしいと僕は思っています。
この内容がまったく現実離れをしていると思う人もいると思いますが、すでに月を二つ目にしている読者もいると思っています。
こういう世界が、もっとたくさんの人の心の中に入っていき、それぞれが見ている現実をもう一度疑う機会になればいいと思います。
できれば、たとえて言うなら、二つ月が見えることもおかしくないと思えるような状況が増えればいいと思うのです。
book4が気になりますが、青豆のように自分の世界を自分が決めることを強く思い生活していきたいです。
しかし、こういう形でこれからの世界を表現してくるところに、僕は強く親しみを感じます。
僕のいる世界だからでしょうか、こういうことが増えていくことを願ってやみません。
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